2016年9月20日火曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論1】 なぜ世界は存在しないのか。 ~21世紀の哲学の潮流を追う~



 どうも、稀代の天才にして変態、パンツまで解脱した男、武庫川散歩です。






 前回まで5回くらい、ギャグなしの記事を書き続けていたので、そろそろ禁断症状が出ているらしく、今日からいつものテイストに戻ろうと思っています。


 性懲りもなく、また「セカイ系一人語り」をはじめるわけですが、せっかく先日までの連載で「この世界で起こっていること、これから起こること」に注目したので、今度はリアルな世界からちょっと離れて、観念的なほう=哲学かいわい、についてお話しようと思います。


 
 その前に、予習として、ダイヤモンドオンラインで連載中の



 いま世界の哲学者が考えていること(岡本裕一朗)
 http://diamond.jp/category/s-sekainotetugakusyagakangaeteiru




という連載を、ある程度読んでおいていただければ、理解が早まると思います。


 まあ、哲学がテーマですから、「小難しいこと」もたくさん↑には書いてありますが、武庫川のお話は「中学生でもわかるように平易なことばで」書くことを基本にしていますから、ご安心を。


 けして、ストライクゾーンが中学生(ロリ)なわけではないことを、誤解なきよう。



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 哲学を学びたい!という人は、実際に大学の哲学科に行ったりすると全員が「一回は、肩透かしを食らう」のですが、その理由は簡単で、


 「自分はセカイの成り立ちについて知りたいのに、大学では哲学の歴史について延々と習う」


からだったりします。


 このことは前もどこかで書きましたが、


「小説家になりたくて文学部へ行っても、小説の書き方を学ぶどころか、わけのわからん古典から明治くらいまでの小説をいろいろ読まされるだけ」


だという現実に似ています。



 つまり、大学というところは、「これまでに生じた先行的なものを後から追いかけて整理して理解する」ということが学問なのであって、


「まったく新しいあなただけの何かを生み出す、ベンチャー企業のような手法は教えてくれない」


ことを理解する必要があるというわけです。




 しかし、今日紹介した連載を読むと、これまでのように、「古典から順繰りと哲学の歴史を習う」というだけでは、現代のさまざまな新しいセカイの問題や課題に対処できないため、



 まるでITベンチャーが生まれるように、哲学にも新しい潮流が生まれてきている



ことも、知っておくと良い、ということになるでしょう。


 簡単にまとめると、哲学は以下のように発展してきました。


<認識の時代>・・・自分とは何か。世界を認識するとはどういうことか。何を見て知覚するか、といったことに着目した時代。

<ことばの時代>・・・概念や思考はことばに由来する。では異なる言語間では共通理解は得られるのか?「善悪や正義」も異なる言語や国の間ではズレがあるように、相対的なものなのではないか、といった考え方をした時代。


 これらは、いわゆる数学や科学の発展とリンクし、先進国における高度な文明のように論理的に構築されてきましたが、 その限界が見えはじめると、

「心やコミュニケーション」

といった自然的なものを取り上げるような、新しい哲学の潮流が生まれた、といいます。


(よくわからんけどwww)






 そんな中で、記事の著者、岡本さんが取り上げているのが「マルクス・ガブリエル」なる哲学者の論で、その名も


「なぜ世界は存在しないのか」(2013)


という著作!




 まるで武庫川散歩が、このブログで書いているのと同一の話なので、ムコガワもビビビッとくるのですが、 本質的に言ってることは私とおなじです。


 ちなみに、ガブリエルかヒキガエルかなんぼのもんか知りませんが、ムコガワがこの説を提唱したのは、大学1年生の時(18か19歳)ですから、



 今から23年前、1993年のこと



なので、か、勝った!!!!ワシのほうが早かったもんね!!!


と声を大にして主張するところだったりします。(←バカ)





 ガブリエルの論の立て方は2つほど例を挙げて説明しましょう。


ひとつめは(別サイトからの引用ですが)



「世界」は存在できるのかhttp://globe.asahi.com/bestseller/2013091200025.html


ではこんな話が出ています。


” 太陽系の惑星、水洗トイレ、はげ、素粒子は存在する。存在しないのはこれらすべてを含むとされる『世界』のほうだ」”


 斎藤さんだぞ。


”古代ギリシャ以来、哲学者がその存在を前提としてきた「世界」を、ガブリエルは、個々の事象をすべて収容できる巨大テントにたとえる。テント全体を見よう とする人は外に出なければいけない。外に出た途端、今までのテントと、それを外で眺めている人を収容できるもっと大きなテント(=世界)の想定が必要にな る。こうして少し前まで「世界」とされていたものも、ただのテント(=個別の事象)に転落。これが「世界」が存在できない理由だそうだ。 ”


”ガブリエル教授の業績は「世界」の存在を否定しても、個々の事象の存在を意味と関連させて肯定する点にある”


 これをムコガワ式に説明すると、こういうことになります。


 つまり、世界はテントの内側にあって、その外側がどうなっているかはわからない。その外側を規定すると、プログラムの中の「RPGゲーム」とおなじことになり、それは単なるプログラムと同化する、というわけです。


 セカイの外側に神様や創造主がいるかもしれないけれど、そうだとしてもやっぱりこのセカイは箱庭の中のコマに過ぎなくなる、というイメージでもよいでしょう。


 そして、ガブリエルとムコガワの共通点は、最後の一文で決定付けられます。


「もしセカイが存在しないとしても、その中にいる我々にとっては【存在するように感じられる】のだから、その内側の我々にとって【存在すると感じられるもの】は肯定するんだ」


ということで、これはムコガワと合致します。


 内側にいる人類は、どうしようもないじゃん、ということでもありますね。


 ガブリエルが面白いのは、もとの記事に戻りますが、私達が目で見て知っているいろいろなモノだけでなく、


物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考える”
 

という点です。


 私たちは一角獣を存在しないと思っていますが、少し考え方を変えれば、世界中が熱狂しているように「ポケモン」はセカイに存在するし、ピカチューはあまたのプログラムの中に存在します。

 プログラムは電気を通じないと動かないけれど、プログラム言語に記載された瞬間に、「存在」として現存するわけですから、そこに電気が流れなくても存在していることになるのです。


 つまり、ポケモンは空想上の「思い描いただけで、実態をもたない」一角獣と同等に、存在することになる!というわけです。



 ガブリエルの考え方はムコガワと同じで、逆説的です。


「セカイは存在しないけれど、存在すると感じ取れる内側ではちゃんと存在する」

じゃあ、

「プログラムのような実態を伴わないものも存在するのだから、プログラムが実は存在しないように、我々のセカイも存在しないのでは?」


 という、逆説論になっているわけですね。




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 さて、連載の第6回では、現代の哲学者が考えている5つの問題について取り上げられていますが、せっかくなので、ムコガワもそれに乗っかることにしましょう。


 次回はそのあたりを、攻めてみたいと思います。





 


 




















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