2017年4月25日火曜日

セックスとは何か。 ~性について真面目に考える~ 今日はお笑いなし。




 いつもはおちゃらけて文章を書いている武庫川ですが、今日はたいへんにセンシティブな問題を扱うので、真面目にやります。



 よく考えると、このブログでは正面から扱うことのなかった「性」の問題。



 特に避けていたわけではありませんが、なんとなくきちんと扱いづらいと思っていたのか、ふだんはごまかしていると自分でも思います。



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 武庫川の周りには、なぜか悩みや苦しみを抱えた人たちが集まってくるのですが、(主に女性)、全員とか大半とかまではいいませんが、そこには


「性に関する根源的なトラウマ」


のようなものを持っている人も少なくありません。



 さて、ここで話を切り分けておきます。


 たとえば


■ 不倫はいいのか悪いのか

■ 一夫多妻制の是非

■ 近親婚はよいかわるいか

■ 高校生同士はつきあってエッチをしてもいいのか悪いのか

■ 自慰行為はいいのかわるいのか



みたいな議論は、武庫川の考え方では、そこには「正解・不正解」を提示しないのが原則です。


 なぜなら、私は「この世界で起こっていることは、良いか悪いかは別にして、歴然として起きている」

と考えているからです。


 つまり、不倫は起きるし、一夫多妻や近親婚が許されてる国もあるし、ダメと言っても高校生はエッチや自慰行為をする。


 だとすれば、表向きどんな言い訳をしようが



 そういうことは、ある。あるったらあるので存在する



としか言いようがないからです。



 そりゃ、性というものがあるのだから、性にまつわる行為や事態は、あるでしょう。起きるでしょう。存在するでしょう。というのが大前提。


(それが正しいか悪いとされているかは、繰り返しますが別問題として)





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 ただ、トラウマを抱えた人たちの間で課題や、人生の傷のようなものになっているのは、上記のような分野とは少し異なって、



 性的虐待をされた



という事例です。



 もちろん、これも武庫川的には「善悪を切り分けた行為」ですから、



「いじめや暴力が存在するように、このセカイには性的虐待だってあるだろう。性の無理強いだってあるだろう」


と考えます。


 あるいは私ですら、誰かと恋に落ちれば、瞬間そういう一方的な態度が生じてしまうかもしれません。

(いや、私はレイプはしないけども)


 たとえて言えば、壁ドンは、「されてうれしいか嫌か」の論議は別にしても、性にまつわる一方的な態度です。


 壁ドンが性的な暴力性を持っていることは、万人に理解できることだと思います。



 なので、壁ドンで拒絶感を抱く人もいるし、そのレベルであれば受け流せる人もいるけれど、



 そこには性の無理強(じ)い(暴力性)



があることだけは確かなことです。




 さて、そうした暴力的な性の無理強いが存在することは確認できるわけですが、その時(被害といえば語弊がありますが)、無理強いをされた側からすると、ここに大きな心の変化があることも確かです。



 一般的に性的な被害にあった(主に)女性が陥る錯誤としては



「自分にも問題点があったからそうなったんだ」

とか

「自分もそれを望むようなそぶりを見せていたのかもしれない」

とか


”起きてしまった事実に合わせて、自己の認識を強引に添わせることで心理的解決を図る”



ということがあります。



 そこに善悪が絡むので、たいていの女性は



「なので私は悪い子だったのだ」


「わたしが悪いんだ」


となるわけです。


 私の歴代の弟子の中で、このことを以下のような表現で語った人がいました。



「私はもう、白いパスポートではなく、黒いパスポートなので、天国にはいけない」

「どうせわたしはビッチですから」
 
「もう神様には、許してもらえないんだ」

「そうですよ、男と出かけましたよ。ばーか」


 善悪が絡むと、自分がされた行為は悪になります。それ以外誰も認定してくれない、と感じるからです。



 誰がなんと言い訳をしようが、


「悪い行為を”された”のだとしても、結果としてそこに残るのは悪でしょ?」


ということです。




 最初の子が言った、パスポートの話がわかりやすいのですが、これは元ネタは赤川次郎の「夢から醒めた夢」というお芝居(劇団四季)です。


 天国行きの飛行機に乗るには、白いパスポートが必要で、黒いパスポートでは天国へはいけない。

 とすれば性被害にあって、そういう悪いことをされてしまったのだとすれば、



 「真っ黒ではないかもしれないけれど、もはや純白のパスポートではいられないでしょう?


 たとえグレーだと言われたって、白じゃないんだから、天国へはいけないでしょ?」



ということなのです。




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 この世界の下で生きている人たちの論理では、


「あなたは被害者なのだから、まったく悪くはない」


と口では確かに言ってくれるのだけれど、そこに善悪が隠れて絡んでいる以上、


「では、私は被害者なので、純白で純潔な乙女であると認めてくれますか?」


と言い返せば、相手は必ずひるむのです。




「ほら、やっぱりあなたですら、私をグレーだと思っているんだ!」




  こうなることがわかっていて、それが不毛な会話だとわかっているから、女性たちは口をつぐむし、それならもうグレーでも黒でもいいや、となるのかもしれない、と思います。


 かくして女性たちは、自分を傷つける方向へと進んでゆきがちです。




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  さて、ここで本質論へ立ち返りましょう。



 セックスとは何か。


 それは、究極的には、「自己を複製するための権利・権力の行使」だと考えます。



「このセカイに自分が生きていたという証は、そのままでは消滅してしまう。

 しかし、生殖行為によって、自己もしくは自己の遺伝子を、共生的(男女の共同体として)に残すための力を行使できる」


 とするわけです。



 実際に妊娠するか、子供ができるかは別問題としても、少なくとも行為については、ベースにそれがあると思います。


 
 セックスが権利権力の行使だとすれば、そこに暴力性が潜んでいることの理由もわかりやすくなります。



 ここに暴行主体の男性が存在するとして、


「私は、自己の複製権利を持ち、その権力を行使したい」


と考えるわけですから、それを相手の同意なしに実行すると、暴力の塊となります。


「私は誰がなんと言おうが行使するのだ」


ということです。





 逆に、暴行を受ける側の女性の立場で見てみます。


「私は、自己複製の権利を持ち、その権力を行使したい」


ということは、その相手は「私に決める権利がある」ということです。



 自己を誰と共生的に複製するかの権利権力は、あたしが持っているのだ、ということなのです。



 暴行が起きた、望まぬ性の強要をされたということは、


「自己複製権を他者に剥奪された」


ということに他なりません。



 これは、別に生殖能力が失われたとか、その後結婚妊娠ができなくなるとかの問題ではありません。





 その人の内面において、


「わたしが生きてきた証を、そしてこれから生きてゆき、未来に対してわたしがこのセカイに立っているということの証を、自己決定できず、他者によって剥奪された」


ということなのです。


 だから、この苦しみは、とてつもなく大きいし、そして一生の傷になるのです。





 ↑このように考えると、ここに善悪の概念を持ち込まないことが大切だというのがわかると思います。




 これは善悪の話ではなく、「あたしがあたしであり、あたしがセカイに対して、ちゃんとここにいて、未来にもいることができる」ということに対しての破壊なのです。





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 では、解決方法。


 「あなたは悪くない」という表面的ななぐさめも効果があるかもしれませんが、おそらくツボはそこだけではないと思います。


 そもそも善悪の問題ではないので、


「あなたは侵害されたんだね。そのことについて、とても共感し、一緒に苦しいと感じます」


ということや、


「あなたの主権を取り戻してほしいし、そのことを応援する」


ということのほうが、大事なのだと思います。





 女性にとって最も望ましいことは、



「私はわたしの自己複製権・権利権力を、わたしの意志に従って行使します。

 私がこの人であれば!あるいは、この人とでありたいと心から信じたあなたと」



ということなのだと思います。(もちろん、男性だってそうです)



※これが「愛する」という概念へ繋がってゆくのですが、それはまた別の機会にでも。





  これは、たった今から未来へ向かっての権利の行使ですから、過去は関係ありません。


 あなたが主体的に意志を持って望むのであれば、それは確かな未来なのだと思います。





 だから、私はあなたを信じるし、ずっと大切に思うことができるのです。


  わかるかな?






 余談)


 不倫が起きたり、離婚しようと思ったりすることが生じるのは、この「意思決定」に基づきます。


 法律上の配偶者よりも「自己の意思決定」を重視すれば、当然不倫になるでしょう。


 あるいは、「自己の意思決定」があるから離婚したいと感じるわけです。


 「不倫は悪、離婚はしないほうがいい」

という概念では、自己の意思と合致しない場合、とても苦しむことになります。



 そしてまた、恐ろしいことにこの「自己の意思決定」は



 一度決めたら未来永劫ずっとそのまんまではない



 ことにも注目すべきです。



 つまり、「私はこうしたい、この人が絶対的な相手だ」という意思決定ですら、未来においては”変わる”」ということです。


 この辺りは、このセカイや人が、空しいものであるという解脱論へと繋がってゆきますが。



 また、自慰行為が存在するということは、善悪ではなく「自己権利の行使」なので、全然問題はないということになります。


 ただ、本来「自分がこの人だと信ずべき相手」が欠如したままでの「権利の行使」ですから、その部分は充たされない感情は残るでしょう。

 しかし、繰り返しますが、これは善悪の問題ではなく、そのこと(相手が欠如しているので、未完成であること)によって生じる寂しさが主体だということです。





























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