2017年2月3日金曜日

「黒くて太くて大きなブツを黙って口で咥える」節分と、神の救いへようこそ。〜「サイレンス(沈黙)」を考える。



 どうもみなさんこんにちは。本日は節分ということで、日本中の健全なる男子女子たちが、


 黒くて太くて大きな一物をほおばる



という卑猥な行事を行っている最中だと思いますが、いははおふほひれふか?


 恵方巻だかなんだか知りませんが、「その年の吉方を向いて、黙って太巻きを食べれば幸せになる」だのなんだの迷信のようなことを信じている人がどれくらいいるのでしょう。



 どうも、近年、この話の元ネタが明らかになってきて、大阪の花柳界、ようは芸者あそびの一環の中で、



 芸者のおにゃのこに、太くて固くて大きなものを咥えてもらうのをおっさん連中が
、ぐへへとよだれを垂らしながら喜んで見る



というのがルーツなのではないかという見解が、真実らしいのであります。



 ようはAVかなんかで、道行く女性にバナナを食べてもらう、的なノリですね。




 なので、いわゆる伝統とか、風習とか、あるいは宗教とかそういうものには、



惑わされずにきちんと向き合うべし



と考えるのが真の解脱者武庫川散歩なのであります。



 というわけで、淑女のみなさんには、そんな悪習が広まっているのを断ちきるためにも、世のエロオヤジたちを見返すべく



ぜひ、本日の恵方巻は、ガチッと噛みちぎったれ!!!!!



と思うのですが、いかがでしょうか、・・・いっ、たたたたたっ!!




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 はいっ!そんなつかみから始まった今日のお話ですが、チンを黙って頬張るということからの連想ではありませんが、昨今絶大な評価を得ているらしい、



映画「サイレンス」(沈黙)



について解脱者の視点から語ってみたいと思います。え?チンもぐ、じゃないよ。ちんもく。




 どうも私には、タイムマシーン3号のように、「すべてをエロくする術」が備わっているようで、たまに脱線しますが、お許しください m(_ _)m



 さて、マーティン・スコセッシ監督の「サイレンス」。これまた物議を醸しまくった不朽の名作、遠藤周作の「沈黙」の映画版です。


 時代は、戦国時代が終わり、天下統一がなされた頃のこと、ポルトガルから日本へやってきた宣教師たちが、弾圧を受け踏み絵などで


「転ぶ」(棄教する)


お話です。


 さて、「沈黙」とは何か、これは簡単にいえば、「どんなに厳しい拷問にあっても、どんなに非道な目にあっても、あるいはキリシタンの農民たちが、どんな責め苦にあっていても、神は沈黙して何も語ってくれないし、奇跡を起こして救ってもくれない」ということです。



 詳しいことは、遠藤周作の「沈黙」を読んでもよいし、映画を見てもよいし(ワシもまだ見てない)、あるいは



 徹底考察「サイレンスが問うそれぞれの信仰の形 カトリック教徒の立場から」
https://oriver.style/cinema/silence-review-2/



がとてもよい文章なので、ご一読をお勧めします。



 上の記事が、いいところついているなあ、と思うのは、


「救われる」とは何か、を明確に論じている


点だと思いますね。これって、大半の素人さんは勘違いをするところなので、この記事主さんはズバリと良いポイントをお教えくださっています。



 このブログを読んでいる読者の中には、元エホバの証人の方もおられるわけですが、


「ハルマゲドンが来て、最後の審判の後には、信者だけが天の国へ行けるんだわーいわーい」


というのが、JW信仰の核なので、それはなんと、



「江戸時代の日本民キリシタンと同じで、さらに言えば浄土真宗的」



な救いだと喝破しておられるところがグッジョブ!!



 ようするにこういうことです。浄土真宗は、「どんな人でも救われるよ」ということを説いたから「悪人正機説」なんて言われるわけですね。

 絶対的な阿弥陀の力が万人もを救う、だから「自力で修行に頑張る」のではなく「他力本願」=神がまるっと救ってくれること、になるのです。


 戦国時代から宣教師が説いたキリシタンの教えは、カトリックですから、本来は違います。カトリック的には、修行したものだけが神に選ばれるので、衆生は救いの対象ではない。けれども、日本人のキリシタン民は、


「弾圧を受けても信仰を守るか弱き民は、拷問で死んでもその信仰によって天国(ぱらいそ)へ行ける」


と受け止めるわけです。これはまさしくエホバの証人の思想でもあり、浄土真宗的思想でもあるわけです。



 このことをカトリックの信者である記事主さんは、ちゃんと捉えていて、だから宣教師たちと日本のキリシタン民の間には



「誤解」


のような見解の相違があるんだけれど、じゃあ「信仰」ってなんなのさ、という部分を、再認識させられるのが、この映画だよね、ということなのです。



 さて、カトリック教徒さん的には、救いとは何か。そこには、いわゆるエホバの証人のような聖書原理主義者との違いも見え隠れするのだけれど、



 神=イエス=は愛そのものなので、いかなる時にも、愛によって許される



というイメージがそこには厳然としてあるわけです。来世とか、天国が存在するとかではなく、たった今がまさに神とともにある、というわけ。




 だとすれば、究極的には、ネタバレになるけれども、



「転んでもいい」


「踏み絵を譜んでもいい」


「棄教してもいい」


のですよ、真の信仰というやつは。





 神を裏切ったその瞬間にも、そんなことも超越して許され、愛されるというのが、カトリックの神の懐の深さだぜ


ということなんです。つまり。これはある意味すげえことを言っている。



 浄土真宗の開祖、親鸞もたぶんそれを言っていると思われます。阿弥陀の本願は、他力であり、絶対的な阿弥陀の力が「救い」を与えるとされています。


 ただ、親鸞のイメージが、


「救いの時期は来世ですよ」なのか

「救いの時期は、まさに今この瞬間ですよ」なのか


がちょっとわかりにくいのですが(往生がポイントなので、来世寄りかな)、ぶっちゃけ阿弥陀にとっては今も来世も「同じ」という超越性があるとすれば、それは小さな差異かもしれません。


要するに、浄土真宗の神=阿弥陀も、絶対的に救うぜ!ということを主張するのです。これまた懐が深い!




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 ちなみに、私の悟りは「救う主体としての神」をあまり規定しておらず、神は我々に関知しないと思っているので、



「他力本願とか愛とか」



による他者からの救いは、そもそも想定していないのですが、



悟りを開いた瞬間に、自分自身が救われる感覚



というのはよくわかるし、そういう意味では、「神はいつでも我とともにある」感覚に近く、さらには


「棄教しても救われる」

「悪であっても救われる」


というニュアンスはビビビと理解できるわけです。それは、完全に来世じゃなくて現世!!!



現現現世!!!!



と声を大にして言いますよ。



 ましてや、解脱者が仏性を帯びるというのも、体感的に理解できます。今度は、私がキリスト教の神やイエスの立場で言うならば、



「対象が、どのような悪の状態や裏切りの状態であっても、愛によって包む」



という意味において、それは実践できます。




 それは例えば、私の弟子となった数々の女子が、男をとっかえひっかえ何度でも失敗を繰り返し、悪行を重ねたり教えに背いたりしても、



「ワシの愛のもとに、許す!それでもキミを包み込む」



ということができる器のでかさに直結するのであったりします(笑)



 というわけで、何度でも許してもらえることに甘えないで、



 悔い改めなさい!!!!
















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