2016年9月1日木曜日

障害者はなぜ生きている”べき”か。 ~相模原事件へのアンチテーゼとして~




 相模原の障害者施設における殺人事件で、現代社会における日本人全員の「障害者は一体この世界においてどのような存在なのか」という哲学的な命題が提示されたことは、疑いようがない。


 犯人の主張するように


「社会に貢献せず、他者の手助けがなくては生きていけない障害者は死ぬべきだ」


という、強烈な問題提起が(その手段の善悪はここでは問わないとして)私たち日本人、ひいては人類の



心のどこかをざわめかせた



ことも、これまた悲しいことではあるが疑いようがない。



 そしてまた恐ろしいことに、犯人の主張や考え方に、少なくない人が、これまた心のどこかで「同意」めいたものを感じ、ネットなどではその意見を肯定するものがいることも事実である。


 さらに言えば、犯人の言うような「優生学」的な発想は、ナチスドイツをはじめ


 人類の歴史のいろんな場面で発明され、発想され、実行されてきた


という事実があり、たった今この時刻にも、羊水検査などに基づいて障害がある可能性があるとされる命が堕胎されていることも、事実なのである。



 経済的事情などを含んだ日本の人工中絶数は



 年間30万人


であり、30万人もの赤ちゃんが


「経済的弱者、あるいは肉体的弱者」


であると予言され(←ここ大事。すべて生まれる前の推定なのだから)、殺されていることは尋常ではない。



 そうなのだ。恐ろしいことに、積極的ではないかもしれないが、相模原事件とおなじことをしている人間が、日本に30万人もいるのである。




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 だからこそ、稀代の哲学者であり、解脱者である武庫川散歩が、この問題から真正面から向き合って何らかの答えを見つける使命があると考える。


 今日は、ギャグ抜きのガチンコでこの話を書く。



 私の元妻は、障害児教育に携わっていた。なので、私もまだ二人に破局が訪れる以前に彼女に尋ねたことがある。


「障害児教育の意義ってなんだ?」


と。


 いま思えば、相模原の犯人とまったく同じ疑問を、解脱以前の凡夫であった武庫川は彼女に聞いたのだ。


「障害児教育によって、ある程度社会生活が営めるようにサポートをするのは良いとして、すべての障害児者が自立できるわけではない。そうした人たちは、どうやっても最終目標に到達しないのであれば、そこにどんな意義があるの?」

と。


 それに対する彼女の答えは明解だった。すっきりと視界が晴れると思うくらい、明解な答えだったのだ。


「それは、誰でも、どんな状態の子供たちでも必ず成長するからです」


と。


「昨日より、今日はほんのほんの一つでも何かが変わり、成長している。その最終到達地点は、たしかに人によって異なる。しかし、必ず伸びる。成長する限り、障害児教育には意義がある」


というその論理は、端的で・明快で・そしてそう言いきれる力強さがあった。




 しかし、この理論は、心地よく明快であるゆえに、そこに一点の破綻を含んでおり、偽ものである。


 結論から言えば、解脱者武庫川から言わせれば、これは24時間テレビなみの偽善なのだ。



 この論理のどこに破綻があるのか。それは、人の一生を考えればすぐにわかる。



 人は伸びてゆく、しかし、同時に老いてもゆくのだ。


「今日出来ていたことができなくなり、明日は昨日より何かを失う」


という老人の世界。


 もし、成長を肯定してしまえば、老人は「老衰してゆくがゆえに、そこに価値はない」ということになってしまう。


 障害児教育を肯定したところで、老人福祉を否定するのであれば、それこそ


「老人は何の意味がないから死ぬべきだ」


に直結してしまうのである。




 解脱者となった今では、「善と悪は表裏一体であり、無常のおもてに現れる一様相にすぎない」とうことがわかる。


 だから、成長する障害児を肯定し、善なるものとした時点で、そこには欺瞞があるということを、今では喝破することができるが、昔の私はそこまで至らなかった。





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 さあ、ここからが本題である。


 解脱者である武庫川は、この世界の一般的な基準とは異なる見解を持っているが、それでもこの社会となんとかすり合わせしながら、生きている。


 それを良いとか悪いとか、そういう次元で問うべきことではなく、それもまた楽しからずやという、それだけだ。



 そうした解脱者の特異な思想信条を、一旦わきにおいて置いて、私はこれから



「障害者は生きているべきだ」


ということを証明する。 そこにたとえ、社会的に生きている価値がないと思われようが、実際に他者の力なしでは生きられないというハンディがあろうが、彼らは生きているべきだ、ということを、わたしは全力をかけて証明したい。



 さて、近年「赤緑色盲」や「色弱」というものが、どうして存在するのかということが長年の研究成果によって明らかにされてきた。


 その結果は驚くべきもので、たしかに色盲や色弱は、「個体としては、マイナス要素(つまり、障害)」のように思うかもしれないが、実は彼らには


「通常の人間よりも、コントラスト差を明確に捉えることができたり、動きに対しての反応速度が異なる」


というプラス要素のようなものが隠れているというのである。


 だからといって、「障害を持つ人にはこんないい面もあるんだよ」というようなしょーもない話でこれは終わらない。


 面白いのはここからなのだ。


 誰もが知っているとおり、色盲や色弱は「遺伝」する。遺伝するということは凄いことなのだ。


 つまり、遺伝子はわざと色盲色弱の要素を、絶滅させずに伝達させたがっている!ということなのである。


 研究者の考えはこうだ。


「これはおそらく、遺伝子はヒトを個体レベルで「よしあし」を判断しているのではなく、『カラーを判別できることに長けた個体』もあれば、一定数の『カラーよりもコントラスト重視の個体』を混ぜて発生させようとしている」

という、とても興味深い結論がそこにある。



 まだわかりにくいかもしれないが、もっと平たく言えば、こういうことだ。


「ヒトという生命体は、個人の良し悪しはどうでもよく、集団においてそれぞれの長所や個性を組み合わせながら全体が生き延びようとする生き物だ」


ということがひとつである。


そして、


「もしかしたら遺伝子は、一定のイレギュラーだと思える活動を、わざとやらかしているのかもしれない」


ということがふたつめなのだ。



 コントラスト重視でカラーに弱い個体をわざと生み出す遺伝子は、狩猟採集において獲物を色で把握するものと動きやコントラストで把握するものの役割を分けている可能性があるという。

 つまり、そのほうが全体として獲物を確保できる確率が上がる、というわけだ。


 あるいは必ず一定の割合でダウン症やさまざまな障害を生み出す遺伝子は、もしかしたら我々にはわからない「意図」を持って、それらをわざとやっている可能性がある、ということにもなる。






 私には、遺伝子の意図がわかる。彼らの意図はとても伝わってくる。



 それは、進化しようとするプロセスそのものに他ならない。





 サルからヒトへ進化するその途中に、遺伝子はさまざまなトライ&エラーを繰り返してきた。その意味では、結果として環境に適さない個体が生まれてくることはあったろう。しかし、総体としてヒトが(あるいは遺伝子が)やろうとしていることは一貫している。

 それは、サルからヒトへ、あるいはこれから起きるヒトから何かへ進化したい、という生命の息吹そのものである。




 これで、ひとつの指針が見えてきたと思う。


 個体レベルで考えるから、ヒトは「正常なもの」と「イレギュラーなもの」をわけようとする。


 しかし、神の目線でみれば、それらは


総体として果敢に進化に挑もうとする遺伝子のチャレンジ


そのものの証なのではないか。



 エジソンの発明には、99の失敗と1の成功があった。


 99の失敗がなければ、1の成功は生み出せない。


 そして、オリンピックでもそうだが、「記録は常に破られる」のである。古い記録をもつものが結果として、数字として劣っているとしても、それが無価値だとは誰が言えよう。


 それらのチャレンジの積み重ねが、新しい記録へと繋がる


ことは疑いようのない事実である。



 100メートル陸上競技において、武庫川散歩やあなたは「何の価値もない」存在である。


 しかし、誰が、ウサインボルトやカールルイス達が「健常」であって、武庫川やあなたを「100m走において障害者」だと言おうか。



 だからこそ、考えてほしい。敗者や弱者に価値がないのか?


 否、けしてそんなことはない!


 敗者や弱者を発生させなければ、生命はけして進化できないのだから。
 

 むしろ、あなたが今「優れた知恵と健康な体」を持っているのであれば、それは数千・数万年前に傷ついたものたちのおかげでそれを手に入れた、ということなのだ。



 感謝せよ!とか、敬意をもて!とか偽善的なことは嫌いだ。


 ただ、そうしたものたちと、共に生きることぐらい人として簡単にできることなのではないか?


 そう言いたいだけである。



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 遺伝子レベルから見た「障害者」は、人類の進化への飽くなきチャレンジの証拠だとしよう。


 しかし、そうした視点は、このセカイに住む凡夫たちにはいまいち理解できないかもしれない。


(話の内容と論理の建て方が難しいからだ。ぶっちゃけ)




 なので、今度は、人間界から、障害者が生きているべきであることを高らかに歌い上げたい。



  アジアプレスネットワークより「相模原殺傷事件を問う」
 http://www.asiapress.org/apn/author/japan/post-49843/



 武庫川は、上記の記事を読んでいて、「これだ」と思った箇所が一点だけあった。


  いわゆる「命が尊い」とか、ありふれた言葉には、武庫川は解脱者なので心を引き寄せられないが、


”重い障害のある子供たちが大事にされる社会は自分たちの命を守ることでもあるのだ”


というこの一節には、ものすごいもやもやと「何か」が武庫川の胸に去来したのだ。



 そして、それは少し前にニャートさんのブログで読んだあの言葉と、勝手に結合し、武庫川の前に問題提起を投げかけた。


”私たちを支えてくれる「外からの手」は皆無だった”


引用元
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/hikikomori-neet




 このつながりが、わかるだろうか。



「弱者を守ることができない社会では、おまえ自身をも誰も守ってはくれないぞ」


ということだ。


 今、健康で裕福で、充たされている誰であっても、災害でも事故でも病気でもいいが、一旦状況が変わっても「おまえ・あんた・わたしを支えてくれるやつはいない」という社会



 それが、


「障害者は社会の役に立たないので、いなくていい社会」


と同等だということだ。





 武庫川は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という人類の一大テーマについて、その理由は


http://satori-awake.blogspot.jp/2014/02/blog-post_7.html


http://satori-awake.blogspot.jp/2015/08/blog-post_11.html


「人は、殺されたくないから殺してはいけないと考えるのだ」


と喝破した。


そして


「意識を殺せば、セカイが消えてしまうから、殺してはいけない」


とも説いた。



 奇しくもここには、障害のあるないや社会の中での立ち位置なんか一切出てこないことに着目してほしい。




 よいか?




 「人には誰でも苦しい時がある。その時に手助けがあったら嬉しいと感じる心があるならば、障害者であっても手が差し伸べられる社会を一緒に作るべきだ」


ということなのである。



 もし、障害者を殺してもいい社会があるとすれば、それは



「パーフェクトヒューマンだらけの社会」



でなくてはいけない。そんな社会は絶対に存在しないし、それがやってくることもない。


我々は傷つき、悲しみ、苦しむ存在だからだ。



 何度でも言う。


 障害者に手が差し伸べるべき社会は、あなたの心に一点の弱さがあっても許される社会である。




 そして誰もが弱さを抱えているのだから、それは(一部の負担ではなく)全員で担うべき務めでもある。




 イエス・キリストの逸話を知っている人も多いだろう。


 姦淫の罪をおかした女性が、人々によって「石打ちの刑」にされようとしている時、キリストは彼らに言った。


「あなたたちのうち、罪を犯したことのない者から先に石を投げよ」


と。


彼女を罰しようとしていた者たちは、一人去り、二人去り、そして誰もいなくなったという。



 私も同じことを言うだろう。


「あなたたちのうち、一点の弱さもない者から、障害者を見捨ててよい」


と。 





追伸:この記事は某さんへの人生の答えとして書きました。


「あなたやあなたの家族を、偽善を排除してありのままに肯定する」とはどういうことかを必死に、そしてストイックに考え抜いた答えが、これです。



あなたの迷いが、クリアになれば嬉しいと思います。













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