2016年5月12日木曜日

解脱者は、このセカイのすべてを理解する。 ~世界は、とっても単純でカンタンだった!~



 前回の記事で、解脱者はこの世界をたった二つの定義で言い表すことを提案しました。



 それは


【定義1 この世界は平衡で、閉じている】

【定義2 創造主は、感情をもたない】


という、とてもシンプルな2つの定義でした。




 地球が丸く閉じた世界であるように、太陽によって生かされている太陽系も有限の閉じた世界でした。宇宙の果てのことはわからないけれど、宇宙が広がっているということは端っこがあるのではないか、ということを前回説明しました。



 閉じた世界というのは、その内部で総和が変化しないということも前回書きました。


 なので、


 人にとって食べることは善でも、動物にとって食べられることは悪である。


 先進国にとって豊かであることは善でも、その裏で搾取される国にとっては悪である。


 ヨーロッパに逃れられた難民にとっては救いでも、受入国にとっては迷惑である。


 あなたが苦しんでノルマを達成すると、雇用主と株主は喜ぶ。


 お金持ちになる人がいるということは、誰かが貧しいということだ。


などのように、 やっぱり閉じた世界で起きる現象は、すべて善悪でさえも平衡になっている、というわけです。



 この世界においては、万物にとって善である、という究極的なWIN-WINの関係は存在しえません。


 このことに気づかない人間は、とても不幸になります。



 なので、赤ちゃんが親を呼ぶときには不快な泣き声を発するのです。

 けして、心地よい声でおっぱいを求めないのです。






 ところが、人類というのは面白いことに「いや、そんなことはない。できれば、そしてできるだけ善でありWINである人間が増えるのがこの世界を良くする事だ」と考えて進歩を続けてきました。



 解脱者の定義は、それを否定するものではないので、まちがえないでね。



 さて、「人類は善を増やし、良くあることができるはずだ」という考え方は、実は西洋思想に顕著です。


 なので、歴史的に、西洋においては、「論理的で、合理的であること」が、追い求められてきて、それは現在の物質文明を高らかに構築するのに役立ちました。



 ところが、「万物は平衡であるから、何が善であるかわからない」という考え方は、東洋思想で発展しました。


 これは、みなさんにとっては仏教の「無常観」などでなじみがありますね。





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 たとえば、「おなかいっぱい食べ、幸せである」という人を定義したとしましょう。これは西洋思想的で、人は幸せになれるはずで、そうあるべきである、という合理的な理念に基づいた考え方です。


 ところが、「そのために、いくつもの生きとし生けるものの命が犠牲になっている」というとも同時に定義できます。これは極めて東洋思想的な視点です。



 ということは、西洋思想とは、


「まず一点の視座を定め、そこから良きこと、善を追求する」


という考え方だとわかります。



 東洋思想は、それとは真逆で、


「空からの俯瞰的な眺めで見たとき、何がみえてくるか」


という考え方だともわかってきます。




 これはどちらも全くおなじものを見ているのだけれど、西洋思想はミクロな視点、東洋思想はマクロな視点で捉えている、というわけなのです。





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 翻って、この世界において人類は


「どうしたら人類は幸せになれるだろうか」


という命題を考え続けてきたのも事実ですが、その影には


「どうしたら、私だけが、あるいは私の国だけが、幸せになれるだろうか」


という視点が隠れていることも忘れてはなりません。



 だから、この視座に疲れた人は、


「そもそも、何が幸せなのかわからない。何が正しいのか不明だ」


とも感じるのです。




  ここまでが閉じた世界で、日々起こっていることを単純化したものです。





 さて、ミクロな視点とマクロな視点、西洋思想と東洋思想で捉えてみたように、この世界というのは、


「合理的でありたいと願いながら非合理、善でありたいと願いながら善ではない」


という現実が渦巻いています。



 なので、人は、昔からその理由を「外側」に求めようとしたのです。


 つまり、神様などを定義して、「神がこれこれこう考えているから、こうなっているのだ」と空想を重ねてきました。




 ところが、この空想も西洋と東洋では考え方が異なるのです。


  西洋思想では、キリスト教のように、「理由があってこの世界は悪になっていて、それはいつか善になるだろう」とやっぱり合理的に考えようとします。


 東洋思想では、「しゃーないやん、無常だもの」とか、「ぐるぐる回っている」とか、合理性よりも、その状態をただ空想で定義しようとしてきました。




 そうすると、特に東洋思想では、創造主がいるかどうかはどうでもよくて、ただ流れていたり回っていたり、ふわふわしていて、その外側の世界は


「あなたに何の関心もない」


と捉えていることになるわけです。




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 興味深いことに、西洋の宗教では、「神の意思に人があわせること」を要求されていますが、東洋の宗教は、「自分が現状を超えること」を求めます。


 西洋思想が神に主権をおくのに対し、東洋思想は自分に主権がある、というわけです。





 それはさておき、この世界がそのように成り立っていると知れば、あなたの心はずいぶんと気楽になったことだろうと思います。


「こうあるべきだ」と頑なになる必要はありません。それは相対的なものだからです。


でも、「流されるまま、回されるままでは面白くない」という側面もあるでしょう。



「神様にすがるのは無駄なこと」だとわかったでしょうか?


でも、 「閉じた世界だからこそ、終わりの瞬間までは動かされ続ける」のも事実なのです。




 さあ、あなたは今からどのように生きるのでしょうか?





 




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