2015年3月18日水曜日

<17>ボクは原理主義者だった ~エホバの証人の王国会館から飛び出した少年の話~

 これまで「書く書く」といいながら、ちーっとも書いていなかった話があったので、忘れないうちに書いておこうと思います。

 そうそう、ワタクシ武庫川散歩が、解脱に至る上で踏んだいろんなプロセスのうち


「神様とケンカした話」


については、これまでこのブログで、チラつかせながらきちんと書いていませんでしたね。


 というわけで、今回はこのネタをしっとりとお届けしようと思います。


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 ♪盗っすんだバイクで走り出す~

というのは言わずとしれた尾崎豊の「15の夜」ですが、私にも若い頃がありました。




 そう、あれは中学生の頃だったかな?たぶん、12か13か14か15の昼もしくは夜の話です。


 その12か13か14か15くらいの少年が、泣きながらとある建物から飛び出し、無我夢中で走り出しているのです。顔面がぐちゃぐちゃになるくらいの号泣で、道なき道を走っています。

 ああ、あれは昔のワタクシ、武庫川散歩の可愛らしい少年姿に相違ありません。

 いったいそのあと、どうやって家に帰ったのかとか、今となってはいっさい覚えていませんが、武庫川散歩少年は、


「エホバの証人の王国会館」


からたった1人、涙を流して飛び出していったのでした!



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 えーっと、ここで解説をしておきますが、最近はあまりネタやニュースにならないので「エホバの証人」を知らない人もいるかと存じます。


 エホバの証人というのは、キリスト教の新興宗教のひとつで、アメリカや日本では相当数の信者を有している「原理主義的」傾向を持った宗教なのですが、


 いっちばんわかりやすい例で言えば、「輸血をしない」信者


で有名です。なぜ、エホバの証人が輸血を拒むのかといえば、カンタンにいうと「聖書にそう書いてあるから」で、基本的に彼らは「聖書原理主義」の傾向が強く、エホバ(ヤハウェ)の神にかなり強い直接的な信仰心を持って生きています。



 さてそのエホバの証人、今週も日曜日になると、日本のどこかで玄関をピンポンして2人組みで回っていると思いますが、あの中に可愛いワタクシもいたわけです(^^


 当時、うちの両親が(熱心かどうかはわからんけど)一応夫婦揃ってエホバの証人になっており、幼き武庫川散歩少年も、「2世信者」として教会に通っておりました。


 ちなみに、エホバの証人は、「バプテスマを受けて正規メンバーになる」ものと、そうではない「聖書を学んでいる期間の人」という2段階の構成員がいるのですが、うちの両親は正規メンバーで、ワタクシはまだ「バプテスマ」を受けていない段階でした。


 まあ、この辺は専門的なので、ようは「出家信者か在家信者か」「洗礼を受けたか受けてないか」ぐらいに聞き流してくれればOKです。



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 さて、そんな環境で育った武庫川少年は、なんと言っても「キリスト教の神を心から信仰して育って」いますので、


□ 当然、輸血は拒否する

□ 当然、暴力反対。(剣道の授業を拒否る)

□ 俄然、神以外賛美しない。(学校で校歌を歌わない。授業は不参加)


などの、超バリバリ信者として活躍していました。小学校時代には、ジャングルジムの上から同級生を集めて


「神について説話する」


という、まさにクリスチャンのかがみのような生き方をしていたわけです。



 聖書に書いてある教え、エホバの証人の中心である「ものみの塔聖書冊子協会」の教えには、もちろん忠実でしたので、まさに


「歩く原理主義者、少年ジハード野郎」


を地でゆく、強烈な行動派だったことを覚えています。なるほど、昨今のイスラム原理主義における、テロの理屈とか、自爆とか、ワタシも少年原理主義者でしたので、いわんとするところはわかります。


 さすがに、エホバの証人の教えには、「誰かを傷つけろ」というものはなかったので、テロルな行動はありませんでしたが、


音楽の授業中に、先生の指導を完全無視して口を開かず、『神の教えにより、わたしは神以外賛美しません!』


なんてやってましたので、破壊力はMAXだったと思います。先生ごめんね。ややこしくて。


 ふつうの人にはわかりませんな。そもそも、校歌が「元気な僕らほにゃ校生~」とか歌っているのもダメなんです。


 神以外賛美するなと聖書に書いてあるから。



 ・・・まあ、そんな筋金入りの「本気野郎」だったので、あるとき同級生の女の子に呼び出されて、

(その子も、おなじエホバの証人の信者の娘だった)



「武庫川くん、どうしてそんなに頑なに頑張ってるの?」

「じゃあ、なにかね。君は、本気で神を崇拝していないのか」

「・・・学校では多少融通してもいいじゃない、と思うの。今のままだったら、あなたがとても浮いてしまうもの」

「フン、きさまなど地獄へ落ちればいいのだ!」


なんて会話があったくらい、ボクは心から神へこの身を捧げていたわけであります。


ちなみに、音楽の成績は1でした。1でした!!!!!!いちでした!!!!!!



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 そこまでやるほどの信仰者だった私が、神様とケンカする羽目になったのは、とてもカンタンなことです。


 本気と書いてマジと読むぜ



というバリバリ原理主義者のワタクシですから、当然、聖書を最初から最後まで読もうとします。 


 そうすると、「創世記」くらいを読んでいるうちに、



ん?


とか


へ?


とか


が?


とか、そういう感じになる箇所に何度も出くわすハメになるのです。



 どこのキリスト教系教団でも、「神・主・エホバ」というものの立ち位置は共通です。


 まずは、世界を創造し、人を作り、でもその人がサタン・悪魔に惑わされたので、原罪を負ったということ。そして、神は愛と父性で、その罪を許してやろうとしてイエスキリストを使わす、ということ。

 この世が悪で満ちているのは、サタン・悪魔にすら優しく「ほな、あんたがいっぺん世界を統治してえみなさい」と許しているからであること。


などなどですが、基本的に、神は全能者であり愛に溢れるお父さんなのです。



 しかし、聖書を最初から読むと、全然違うことが書いてあるわけ!



「違う宗教を信じている異国民をブチ殺せ!ひとり残らず始末しろ!」


「俺は妬む神で、ひがむ神なんだぜ。ちがう神を崇拝するやつは火の海だ!」


「俺のいうことを聞くやつは可愛がる。そうでないやつはこんな目やあんな目だ」


「俺の力をきちんと伝えるヤツには、約束の土地をやろう。ただの預言者がでしゃばるな。お前の力じゃないんだ。お前はでしゃばったからここで死ね」



 
 おまけに「俺への信仰心があるかどうか、長男を殺して示してみろ」とかそんなことまで言い出すわけです。

 もう、基本的にピー(自主規制)です。



 言ってることは、某国の将・軍サマーと全く変わりません。もともと、砂漠の神は、そういう神だったんです。


 だ・か・ら


 バリバリの信仰心を持っていた、少年原理主義者は泣き出したのです。


 エホバの証人の王国会館で、まさに集会が行われているその中で、聖書を読んでいた武庫川少年は、号泣し、すっくと立ち上がります。



「あなたが、本当の神なのだとすれば、ボクはあえてあなたと対峙する!あなたが真の神だと言うのなら、ボクを滅ぼせばいい!地獄にだって悪魔にだってなってやる。しかし、はっきりと言っておく、ボクはあなたを信仰しない!」



そう叫んで、少年はそのまま王国会館から走り出しました。





 ・・・たしかに神はいるかもしれない。しかし、キリスト教の神はほんものではない。

 ・・・いや、もし仮にエホバが本物だとしても、僕はエホバに仕えるつもりはない。

 ・・・そのためにハルマゲドンで滅ぼされ、地獄に落ちようともそれでかまわない。

 ・・・背教者でもいい、悪魔と呼ばれてもいい。これが僕の真理だ!!!!!



 そう思いながら、走る。走る・走る。走る。転ぶ、走る。また走る!


 少年はこうして、もっとも信仰に富むものからサタンと変化したのです!



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 というわけで、キリスト教原理主義者だった武庫川散歩は、より一層、



果たして、僕が捨てた神は、本当はどんな存在なのだろう



ということを、既存の宗教を一切排除した状態で探ろうとはじめます。
 


 その結果が、このブログにつらつら書いてあるわけですが、簡単に言えば、



神は、だいたい妬んだりしねーよ



ということに尽きます。



 自分の言うことを聞く民だけを救う神なんて、そもそも器がショボイのです。



 真の神、それもこの世界を作った神ならば、そんな低レベルのことであれこれ思うことは一切ありません。


 そう、つまり、神は意識なんてもたないのです。



 ・・・まあ、ここから話し出すと長くなって夜興奮してみんな寝られなくなると思うので、今日はここまで。


 そんじゃーね。


(↑ちきりん風。神について「自分の頭で考えろ」ということです)



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